ニセモノに価値はあるのか?
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学生の本業であるテスト期間に久ぶりに更新するという、現実逃避の鏡のようなことをしている私です。
なぜこのアプリを入れたかと言うと、日々思いついたこととかをアウトプットする場所が欲しいなと思い導入致しました。ついでにこのブログとかでフリック打ちを練習しようという魂胆もあり、私にとっては一石二鳥なんですね。
ですから本来もっと多くの更新ペースをしてもいいはずですね、、、これからはペースを増やそうと思います。
閑話休題。
「それは偽善だ」
この言葉をよく聞きます。席を譲ったり、募金をしたり、など日常の何気ない行動で言われることもあります。いわゆる人助けみたいなことを指すように思われます。そしてそれをなぜ偽善というのだろうか、誰も不幸を被っていないのではないか?と感じたことはみなさんはないでしょうか?
では、そもそも偽善とはなんでしょうか?
ぎぜん【偽善】
本心からではない、うわべだけの善行。 ⇔ 偽悪大辞林 第三版の解説より
このようにググってみたら出ました。
まず、これを見て思うことは善とはなんぞや?という点ですね。
この問は倫理学の大きなテーマというか、倫理学を表すような問だなと勝手に思っています。
その問について、語れるほどまだ知識がないですが、今のところは個人的に功利主義が納得のいく善の考え方なのでその考えを参考に偽善について考えていきたいと思います。
先の引用に書かれているように、偽善とは本心から思っていないことのことを指すようですね。席を譲ったりする、募金をするのどこがみなさんは偽善だと感じるのでしょうか?私はそういったことによって、その行為をしている自分に酔っているから偽善だと感じるのだと思います。優越感のようなものなのかなと思ったりします。実際、私もそういった行為をすると清々しい気持ちがしますし、心地がよいです。よいことをしたと酔ってしまいます。確かに!この心地良さを求めてそういった行為をしてしまっているかしれません。確かに、人を助けたいということを純粋に動機としているかは微妙です。
しかし、それで誰かがそんをしているのでしょうか?むしろ関係している人に良いことしかないじゃないかと思います。偽善は別に悪いことじゃないのではないか?そう思います。
確かにそうですね。その通りだと今でも思っています。けれども、こうも考えられるのではないかとも思うのです。
もし自分が相手の善行の動機を知ってしまったらと、それが悪いと感じられるものだとしたらと。
こうすると確かに偽善は悪いとなってしまいます。これに対して知らなかったら、偽善ではなくなる!と思う人もいると思います。
けれど、本当にそうでしょうか??その動機が知られることが悪いことではなく、その動機が悪いから行為も善いとは言えなくなってしまうのだと考えます。
実際にもしその動機が純粋なものだったとしたら、知られてしまっても何も悪くないです。よって、悪を含むのは動機を知ることではなく、動機が悪を含んでしまっている点です。
こう考えると確かに、偽善は悪いことだと思えなくもないです。
けれども、またまたこうも思うわけです!偽善によって生まれるプラスは、ただの善行よりも多いのではないか?と。
例えば、若い人が自分の好きな人に優しい所を見せたいという自分の欲求を満たす為に老人に席を譲る。
この場面は、老人を労わっているように思えるが、本心は別にあると偽善であるように思えます。
しかし、この場面ではただ若い人が善行をするよりも、多くのプラスがあるのではないでしょうか??
老人は席に座ることができ、楽を手に入れることも出来ますし、若い人もまた自分の目的を達成することも出来ます。一方、善行だけでは若い人の自己犠牲でプラスを手に入れることが出来るのは老人だけです。
こう考えると、偽善も決して悪くないのではないでしょう?むしろ、より多くのプラスを生み出しているので善行よりも価値があると考えることもできます。
ただ、善行によるプラスの方が質が高いというのは否めないとも思っています。
今回の話とは少し趣旨がズレてしまうかもしれませんが、物語シリーズの貝木泥舟というキャラクターのセリフが私の中ではとても大きく印象に残っています。
そこに本物になろうという意志があるだけ、偽物の方が本物より本物だ
偽物語より
この言葉がきっかけで、本当に本物って価値があるのかなと思うようになりました。